【コラム】受験歳時記5月号「フルスイング」
コラム
ストリートピアノ
最近、駅のコンコースに一人10分間自由に弾けるピアノが1台置かれた。母親連れの女の子が小さな指で音をはじき出すこともあれば、白髪のご婦人が昔懐かしい曲を一音ずつ叩いていることもある。ある時などは、学校帰りの制服男子が身を揺らしながら卒業ソングを披露して人を集めていた。あのように鍵盤を見ずにさらりと弾けてしまうのは、どの指がどのキーと連動すれば音符が宙に舞うごとくメロディを奏でられるのか、指が、身体が、動きを覚えているからなのだろう。
弓道
今春の都立西高の国語の自校作成入試問題では、弓道に励む高校生の楓を主人公にした作品(※)の一部が取り上げられた。「射る時は中(あ)てようとしてはいけない」という師匠の教えを不思議がる楓は、「的に囚われているのは美しくない」と続く師匠の言葉に一層困惑する。弓道には「正射必中」つまり「正しく射れば必ず中る」という奥義があり、的に中てようとするのではなく、正しく射ることに全神経を集中すれば、自ずと命中するという意味らしい。
- 碧野圭『凛として弓を引く』(講談社)
WBC
高校時代に早世した野球部マネジャーが色紙に残した「心」の一文字を、全試合、グラウンドに書き付けていた捕手がいる。そのミットの真ん中に160キロのボールを投げ込むための投球術を、成長痛との長い闘いの中から編み出した速球王がいる。その他、サイドストーリーに事欠かないWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)。本編である試合でも、盗塁走者を刺す現役最高の遊撃手のスーパータッチがあり、片手でボールを軽々とスタンドに運ぶ打棒にもしびれた。そして、日本中が最後の2日間連続で思い知ったのは、野球は9回まであるゲームだという当たり前の事実だった。
準決勝
ドラフト会議では1位指名から外され、打力もあったが三振が多すぎた。それでも当時の監督が「フルスイングが持ち味」と我慢に我慢を重ね一軍起用。ついに大輪の花開き、史上最年少の三冠王。ところがWBC開幕後、不振が続き三振の山。ボールは見えているがストライクゾーンがつかめない。そして迎えた準決勝9回裏、意外にもこの若き三冠王はそれまでと何ら変わらぬ心境で打席に入っていた。打法を変えたら体のメカニックが壊れる。流しても打てる柔らかい技術は持ち味のフルスイングがいつか呼び起こしてくれる。身体の動きが、頭から指先までの連動が、ヒットゾーンをメロディのように覚えている。まさに「正射必中」の訪れをピアノの前で待つ心境だ。本塁打狙いではなく、今まで打てていたプロセスを続けていれば、自ずとボールは外野手の頭を越える。実際、劇的サヨナラ打の直前、ぽーんとファウルが上がった時、「感覚が戻ったかも」と思ったらしい。
二刀流
そして翌日の決勝。その9回は、二度と見られぬ日米最高のプレーヤー同士の対決という贅沢すぎる御膳立て。試合開始前、投打二刀流のスーパースターが仲間に語ったという内容も話題だ。量子力学に「励起」という用語があり、低位のエネルギー状態が原子や分子の相互作用で高エネルギーに移行することらしい。「今日だけは憧れを棄ててかかろう。僕らは勝ちに来たのだから」。意外性ある言い出しでぐっと惹きつけてから、なるほどの深い納得感で締めくくる。そんな高等テクニックをも心得た、聞く者たちを励起状態に引き上げる名スピーチだった。二刀流は、二本目の刀を手にしたとき、自分の輪郭がはっきり定まるという。その境地の何もかも、すでに地球外レベルに達していると思わされるのは、どちらとも選べない大好きな二つを全力でフルスイングする姿勢の、そのあまりに大きすぎる輪郭のせいではないだろうか。
「受験歳時記」は、受験生とそのご家族に送る、一年の折々に寄せたSAPIX中学部オリジナルコラムです。
【著者】増田恵幸
SAPIX中学部にて高校受験指導、受験情報誌『SQUARE(スクエア)』編集に携わる。2019年定年退職。在籍時より『受験歳時記』を執筆し、『SQUARE』およびSAPIX中学部ホームページにて連載中。